代表プロフィール
岡野秀章 経歴
所属
日本公認会計士協会近畿会
公認会計士登録番号 第15679号
近畿税理士会東支部
税理士登録番号 第110989号
登録政治資金監査人登録番号 第195号
1993年 | 大阪大学経済学部卒業 |
公認会計士試験合格 | |
監査法人トーマツ神戸事務所入社 | |
1998年 | 大阪ガス株式会社入社 |
2008年 | 岡野公認会計士事務所開設 |
兵庫県農協専門検査員
兵庫県明石市行政評価委員
上場企業非常勤監査役 1社就任
投資事業有限責任組合(投資ファンド)法定監査4組合受託
講師 関西学院大学専門職大学院経営戦略研究科
「ハッピーキャリア(女性の再就職・起業)支援プログラム」
生年月日 1969年(S44)5月19日
血液型 A型
家族 妻、高校生の娘と息子、中学生の息子の5人
趣味 B級グルメ食べ歩き スポーツ観戦
特技 異業種交流会なんぞで初対面の人に一発で印象づけること
夫・国鉄マンだった父とやさしい母に包まれ、一人っ子として育ちました。
子供の頃から数学が好きで特別なこだわりを持って少年期を過ごしました。
得意科目lは、算数、数学ということで、漠然と「自分は事務系の職業に就くのだろうな」予測していました。
岡山県倉敷市は不思議な街です。一般的には美観地区のイメージがあり、白壁の美しい街並みのイメージがありますが、その反面、工業地帯の顔も併せ持っています。
また、鷲羽山に代表される瀬戸内の穏やかな海も倉敷の特徴の一つと言えます。
そんな中で私は育ちました。
高校に入り、生徒会活動をし、会長として活躍した私は、そこで人と関わることに多大な喜びを感じるようになりました。
それは中学時代からそうであったが、高校に入って生徒会活動の中でさらにその思いを強くしていきました。
予備校時代、公認会計士を目指すようになりました。
希望していた大阪大学に入学し、アーチェリー部に所属してクラブ活動に勤しむが、二年性の中ば頃から会計士受験を目指してすべての活動をやめ、本格的に資格取得のための勉強に励むようになっていきます。
幼い頃から数字が大好きで数字に特別なこだわりを持っていた私にとって、数字に関わり、数字と取り組む仕事である公認会計士は、天職のように思えました。
大学を卒業した年に公認会計士の資格を取得しました。
神戸の監査法人に入社
監査法人では上場企業の決算書をみて、正しいかどうかを調査したり、上場に向けての支援、サポートをすることが主な仕事で、その中で私は、上場に向けてサポートするする仕事に興味を持ちました。
経営者の上場への夢を受け止め、チェックし、数字を創り上げていきます。そのやりがい、生き甲斐を感じながら、そこで5年間を過ごしました。
その間に結婚して世帯を持ちました。
結婚同時私は25歳、妻は24歳でした。旅先で知り合ったのですが、私が資格をとった翌年に結婚、その次の年に長女が誕生、28歳の年に男児、31歳の年に次男が誕生します。
結婚によって仕事に対する意欲がさらに高まった私は以前にも増して一つ一つの仕事にのめり込むようになりました。
一般企業で10年間
監査法人トーマツを5年間勤めて、その後、大阪ガスに入社、経理のスペシャリストとして働きました。
大阪ガスは、ガスだけでなく、関係会社100社以上を抱える総合企業でもありました。
フィットネスの事業もあれば、老人ホームもある、ホームセキュリティの仕事もあれば、飲食店もあるといった具合にその内容は様々です。
私の仕事は、そんな多様な関連企業の経営管理、業績分析をすることでした。
それぞれ企業の目標を立てて、予算を作成する。
言葉で言えば簡単だが、至って難しい仕事でした。他にもM&Aの取り組み、売却や買収の仕事もありました。
たいへんだったのは、社内で経営幹部に各企業の説明をする時です。当り前のことですが、的確に各企業をを把握していなければ幹部を納得させる説明が出来ないのです。
そのため、各企業の数字をしっかりつかみ、その動きを常に察知していなければならなかったのですが、この苦労の経験が後に独立して様々な企業に取り組む時に生きました。
子会社の社長さんにテーマを持って仕事がやれるよう、指導する役割の一員として働きました。多業種の経営者へのアドバイス、指導はたいへんな仕事であったが、各会社の数字を見る、つくることをするうちに、会社の中から数字をつくるとはどういうことか、それを様々な経験から悟るようになってきました。
大企業で働くうちに、いつの間にかその生活にどっぷり浸かり、サラリーマンとして生きることに慣れてきていました。安穏としている自分に出会った時、自分はこれでいいのだろうか、と真剣に考えるようになってきました。
確かに、大企業のサラリーマンは安泰です。金の苦労をしなくてすむし、家族を路頭に迷わす心配もありません。つつがなく働いて定年になったら退職金も出ます。
でも、それで満足かと自らに問うてみたら、困った答えが返ってきました。
冒険してみろ、と言うのです。
やるなら30代後半の年の今しかない、と思いました。40歳を超えれば気持ちが萎えるのでは、とも思いました。
実際、退職するにはかなりの決断を要しました。家族の理解も必要で、諸々の思いに悩みに悩みました。悩んだ末に独立を決めたのは、自らの強い思いとやり抜くことへの強い意志が自身の中にはっきり見えたからです。
事務所設立
ちょうど10年目にして大阪ガスを退職しました。平成20年8月のことでした。この時、
私は39歳、40歳を前にしての独り立ちでした。
「大きな会社にいるとどんなに頑張っても自分の成果として残せることは限られていると思いました。最後は何をして終わろうか、そう考えると自分の人生がもったいないと思うようになりました。公認会計士としての資格と、大阪ガスでの経験を生かして、築き上げたものを使いきって残りの人生を頑張ってみよう」
そう決心して私は会計事務所をスタートさせました。
大阪ガスでの10年の勤務は、私にとってかけがえのない経験となり大きな力を与えてくれました。スタートする事務所は、10年間、慣れ親しんできた大阪ガスからそう遠くない場所を選びました。
独立に当って私は経営理念、経営方針、経営戦略を立てました。
経営理念は「会計事務所を通じて社会に貢献する」。
2つの内容があり、1つはお客様に対して、もう一つはスタッフに対してのものです。
「税務業務、経理・総務業務を通して、事業の成長発展をサポートする」。
お客様に対する私の理念です。
スタッフに対しては「精鋭スタッフに、柔軟な勤務態度により、より働きやすい環境を提供する」にしました。
経営方針は、「経営理念を実現するために、適正な利潤を追求し、その分配や再投資により、水準の高いサービスを提供する」。
いかにしてお客様にサービスを提供できるか、サービスに対する思いを記したつもりです。
経営戦略もまた、お客様に対してのものとスタッフに対するものと2つの戦略を立てました。「従来の会計事務所のスタイルにとらわれない」という文言を入れました。
その戦略の多くが、かつて監査法人トーマツ、大阪ガスで体験してきたものが軸にあり、私自身が多くの企業で培った経験が礎になっています。
スタッフに対してもそうです。自らのサラリーマン生活の体験を軸に緻密に立てられた、非常に理解しやすい、また、人間味のある戦略にしたつもりです。
こうして個人事務所をスタートさせた私はスタートさせるに当って、まず、嫁さんに感謝しました。長女を筆頭に3人のこどもたちがいるのです。2人とも関西人ではありません。
特に嫁さんは札幌の人で関西とは遠く離れています。私自身も関西に身寄りはありません。そんな中での子育てはたいへんです。サラリーマン時代の私は、朝は7時に家を出て、夜は12時前後という生活をしてきました。嫁さんにかかる負担は大きく、それだけに常に嫁さんのことを気にかけてきました。独立するとなれば、なおさら奥さんに負担がかかります。それでもスタート出来たのは、嫁さんの理解と応援があったからです。
才能があり、仕事をすればそれだけ活躍出来るだけの高い能力を持っていながら子育てのためとはいえ、家の中に閉じ込めておかなければならないことへの申し訳なさ、感謝が、私にあるアイデアを浮かばせたのです。
それが、在宅スタッフ制度でした。
世の中には私の嫁さんと同様に高い技術、高い能力を持ちながら、子育てのため、夫のために家事に従事している主婦は多いですが、私はそんな主婦たちに在宅スタッフになって在宅で仕事をしてもらおうと考えました。
在宅スタッフの主婦たちはすべて資格を持っているかそれと同等の能力を持つ有能は人たちばかりです。幸い、今はパソコンで何でも出来ます。出社しなくても在宅で仕事をすることも十分可能です。
メールでデータを送り、それを元に決算書を作り、書類を作るなどそう難しいことではありません。嫁はんに感謝しながら生み出したこの制度は、制度の高い数字づくりを目指す私にとって大きな戦力lになりました。
数字に魂を込めて
サラリーマン時代に培った「上司にきちんと説明する」あるいは「説得する」ということが、公認会計士として独立した私をすぐに助けてくれました。
経営者は、その会社の数字を提供すると、必ずその数字の根拠を要求してくるのです。
安易な説明では納得してくれないのです。簡単に説明しようとすると怒りを買います。
業績から出てきた数字は、その会社が生み出したものだから、その会社を熟知した人間でないと説明しいくいところがあります。
だが、外部の人間ではなく、内部の人間として、経営者を自分の上司として考えた私は、かつて大阪ガス時代に上司にそうしたように、根拠を割り出し、分析して説明をし、説得をしました。
そうすると、経営者の理解は早かったのです。経営者を、あるいは会社をサポートするためには、外部の人間として客観的に数字に取り組んでいてはうまくいかない。経営者を上司としてイメージし、会社に所属する人間のようにして取り組めば、見えない部分も見えてくるはず。わからないところも理解出来てきます。
一体となって数字に取り組むことが重要なのだと悟りました。
しかし、当然ながら、説明するだけではその会社をサポート出来ません。
言わなければならないことはきちんと伝える。その時だけは公認会計士としての自分の立場を明確にして発言するのが大事です。
公認会計士の目線ではなく、お客様の立場に立って数字をとらえなけば、顧客に満足のいく回答は与えられない、そのこともO社時代に教わったことです。サービスの本質がそこにあると私は考えました。
会計士の立場で物事を判断していくと、どうしても数字に冷たくなります。それでは顧客に満足してもらえないのです。通知するだけで終わってしまうからです。
それに各企業、それぞれ経営事情が違います、会計士として強引に数字をとらえ、数字を伝えていては、それぞれの経営者は理解出来ないこともあるし、納得してくれないこともあります。まして問題点を分析することなど到底出来ないのです。
しかし、顧客、つまりお客様の立場に合わせて数字を考えれば、それぞれの問題点を指摘出来るし、回答を与えることも出来ます。それが、本当のサポートではないかと私は思い、実行をすることにしました。
言葉ではたやすいが、行うことは決してたやすいことではありません。お客様の立場に合わせるということは、ともすれば自らの立場を見失うことにつながることにもなります。顧客に喜んでいただける代わりに公認会計士としての立場を危うくするおそれもありました。
だが、顧客に迎合するなら」そうでしょうが、公認会計士としての自らの立場を的確に明確にして数字に取り組めば大丈夫だ。私はそう考え、各顧客と真摯に向き合いました。それが功を奏したのか、気難しい経営者も次第に私を評価してもらえるようになってきました。そんなふうにして私は顧客を開拓してきました。
こうした仕事は特殊な世界なんです。どうしても数字だけにとらわれてしまい、そこしか見えなくなっています。また、そこから抜け出せない、そういうふうになりがちなんですね。私だってそうです。でもある時から会計士としてではなく、普通の事業をやるように運営すればいいのではないかと考えるようになりました。
他の事業では当り前のことをすればいいだけだと。そうすると、数字の裏の世界が微妙に見えるようになりました。今までは数字は動かせない、事実の固まりだったものが、数字に魂を込めるようになってから、数字は生き物になったんです。
許容範囲の中で思いを込めて計算書類を作る。真面目に記帳するだけでなく、その中で予算や目標を持って取り組む。そうすれば全体のモチベーションがぐんと上がっていく。数字を作ってその数字に魂を込める。これが数字を扱う人間には大切なことではないかと考え、私はそれを実行に移しています。
数字に現れる予兆、前兆
その会社の数字の表を見ると、予兆、前兆は必ず現れます、それを会計士の立場で申し上げるのですが、その時はわかってもらえないことが多いです。でも、何年か経つと必ずといっていいほど、その通りになる場合がよくあります。数字は正直です。
預言者ではありませんが、数字を見ていると予測出来ることがたくさんあります。そうして今の会社の立ち位置から先を見据えてアドバイスが可能になると思います。
経営者は、従業員の力を束ねて的確なマネジメントを行うのが仕事です。そのためにも従業員の言葉に耳を貸して、それを導く船頭さんであらねばなりません。私たちの立場としても、時によって耳の痛い話をするかもしれませんが、経営の数字だけでなく、それ以外のことも非常に大切です。そういう意味で、思うところのものを遠慮なくどんどん申し上げてお聞きいただきたいと思っています。